高校時代の思い出

朝起きたら最悪の気分だった。いつもならゴネて欠席するが、毎回電話をかけてくれる父がもう出掛けてしまったので、諦めて家を出た。

いつもなら曲がる道を直進する。家が見えなくなったころ学校に欠席の電話をした。(親がしなければならない決まりだが、もう出かけてしまって、、、と言ってことなきを得た。)

そのままコンビニに行き、つけ忘れたマスクを買って土手をフラフラする。途中で階段になっているところがあって、そこを下って、いつものように川に足を浸す。。。覚えていない。浸したのだろうか。

そしてそのまま、1時間半ほど眠った。

 

 

暑くて目が覚めた。さすがに9月はまだ夏だった。橋の下に逃げた。

あらかじめカバンに入れておいたリヒターの美術手帳を取り出し、読む。

喉が渇いたので自動販売機まで行き、復刻堂のサイダーを買った。橋の下というか土手の下は少し駐車スペースがあって、何かの仕事をしている人がズルをしている。私もズルをして今ここにいるから、こわくない。ズル仲間。

 

橋の下に戻って本を読んでいると、蟻がきたので追い払う。スカートの中に蟻が入っていくのを想像して気持ちが悪くなった。

少し移動して、今度はウォークマンのラジオをつける。

吉田沙保里が作った新しいシューズについて熱心に語っていた。

その説明から想像した靴はとてもダサくて、少しおもしろくなって、家に帰った。

 

 

 

 

 

 

「地元」でしかなくなってしまった土地について

先程まで実家に帰省していた。今帰ってきたばかりだ。本当は新幹線で書きたかったのだが、あいにく隣が埋まっていたので恥ずかしくて辞めた。

お腹が空いた。一旦家に荷物を置いてからコンビニに行こうと思っていたのだが、もう家に着いたら出るのがとんでもなくめんどくさくなって、実家から持ち帰ってきたチップスターアルフォートを交互に食べ続けている。こんなことよりもコンビニでキャベツの千切りでも買って食べた方がいいのに。

 

さて4日ほど地元で過ごした。帰省自体は結構頻繁にしていて、それは私の家族はあまりにも高齢だからという理由なのだが、家に帰るとみんな元気そうだと感じる。誰も病院に行ってないじゃんと思ったが、ただ祝日だったからというだけで、これには気づきたくなかった。

 

私が家に帰ると凱旋のように、いろんなお店に連れて行ってくれる。

祝日のイオンは流石にすごくて、月並みだが人間というものは大きなサイクルの一部であるということをはっきり教えてくれる。大きくなるにつれてイオンも大きくなっている小学生、楽市楽座に溜まっている派手髪の、なんの仕事しているのかわからない若者、なんとなくこの県から出たことがなさそうな風船みたいな女性もいる。そして孤独な老人はいない。(家からバス停まで20分歩いて、20分バスに揺られて駅につき、そこからさらにバスに30分乗ってやってくるのは至難の業で、イオンにいる老人というのは車を出してくれる家族がいる”勝ち組”なのだ)

個人的に好きなのはアニメイトメロンブックスの前で、ここの一角だけ客層が変わる。店内を歩いていたところ、40代のオタク夫婦の男性が、女性の尻をそっと触っていてすごかった。

 

高校の同級生らしき人が働いたりしている。慎ましいなと思う。本当は私の親も私にはこうあって欲しいのかもしれない。

家族でご飯を食べていたら、「お隣さんの娘、留学に行ったんだって、馬鹿じゃないの」といっていたので、やはり家族はここから出て行って欲しくないと思っているのかもしれない。留学審査のため必死になってポートフォリオを作っているということは黙っておいた。あと先日勝手に海外旅行に行ったことも黙っておいた。

 

イオンからの帰り道はほとんど走馬灯で、高校や通っていた塾、よく行ったカフェ、もう誰が住んでいるのかわからない元友達の家などを通過する。その度にそのことを思い出す。政党のポスターはもう読めなくなっていた。

この4日間で県内をいろいろ回っていたが、新しい思い出というよりかは過去をなぞっているだけで、結局私はここに住んでいる人間じゃないんだなということをちゃんと自覚させてくれる。

一ヶ月前に帰ってきたばかりだったのに、家は二軒取り壊され、店は三軒潰れていた。

国道沿いには鮮やかな、お金のある東南アジアの国みたいに大きな看板ができて、かといってできるものといえば薬局かホームセンターしかない。そういう街だった。そしてこれからもそうかもしれないし、けどいつかは終わるのだと思った。超確信的に思った。けど誰にもどうすることもできないし、誰もどうにかしようとも思っていないし、誰もがどうしようもないことなのだと考えている気がする。

 

生まれてからずっとこの街に住んでいる祖母が、卒業したら当然戻ってくると考えていることにごめんと思う。そしてここに戻ってくるということは人生に敗北した時なのだと考えている自分がいることに辟易する。もうそろそろ、ちゃんと地元をとらえたらどうですか。いつまでもこんなところ、と思うのはやめにしませんか、でも思い始めたら、人生が収まってしまうなと感じていて、嫌なんだけど、でも結局は地元に残った同級生の方が幸せそうで、ああ、と思ってしまう。

 

 

 

 

 

頻繁に「死」を考える理由

何か嫌なことが起こった時、咄嗟に、もう死んじゃおうかな、、、と考える。

初めてその感情が湧いたのは中学2年生の6月だ。定期テストの結果が悪すぎて(自分では頑張ったのだが)もうこんなに報われないのならいっその事死んでもいいな、、、と思った。くだらない理由だが、なんだか人生全体のやる気がなくなってしまった。そして校舎の3階から駐車場を眺めていたが、普通に着地ができてしまいそうでやめた。田舎だったのでそれよりも高い建物はなかった。

高校に入ってからはもう5年ほど、死ぬか、、、という状態で、生きることを当たり前というか、前提の、覆すことができないものとは考えることができず、ずっと生と死の2択でしか考えられない。

まあ大人になれば大体の人がこんな感じだろうと思っていたがそうでもないらしい。世の中には死ぬことなんて考えたことがない、いくら病んでも死にたいとは思わないといった人間は存在する。

これは私が躁鬱だからこうなっているのかもしれないが、それよりももっと、なんか、死というものが身近かつそれでいて現実的ではないものとしてとらえているからではないかと思う。

 

 

私は生まれた時から二世帯住宅で暮らし、両親が忙しかったのでよく祖父母と一緒にいた。そのため祖父母あるあるの死ジョークを浴びて育った。「まあ死ぬけど」と聞いた回数は100回ではくだらないだろう。そしてそれを聞くたびに、まあ数字的には確かにそう遠くない未来の話だなと子供ながらに思っていた。今ちょうど帰省しているが、3日間でもう10回くらい聞いた。

 

そのうちに祖父はボケてきて、最近では月一ペースで祖母を杖で殺そうとしている。「お前を殺して俺も死ぬ!」をケンカのたびに発しているらしい。メンヘラのジジイだ。

 

 

身近な死を体験して、簡単に死ぬといってしまうことはよくないことだ、と考えを改めた人は多いのではないだろうか。

そしてこういう言い方は良くないのだが、先ほどのそろそろ死ぬ話をしてくる老人は基本的に長生きだ。だから死というものの実態を知ることはほとんどない。

嫌なことがあった→死というシナプスだけが反復学習の効果により高速で結びついて、その周りにある重要な部分は全部切れた。

そのため、安易に辛いことと死を結びつけてしまう。生と死の二項対立、そしてそれに苦しめられている、放棄してしまう。もうやーめた状態である。もうずっとそんな感じだ。

 

なんだか人生って積み重ねすぎる。こんな小さい頃からの聞いた言葉が自分の中に蓄積されているのか。そして思考が偏ってきている。嫌だ、楽しくない、一発逆転のギャンブル要素がないと、つまんない、、、織物かい、織物も積み重ねかい(そうだろ)、でも戻ることはできない。織物よりクソかい。織物のいいところって戻れるってことなんかい。じゃあ織物っていいかもな、素敵かもな、でも人生の美しさって、その戻れないところが輝いているのでしょう。間違いばかりを重ねてきました。恥だけで織った織物が私です。

 

 

絹子は縦糸を切った。