頻繁に「死」を考える理由

何か嫌なことが起こった時、咄嗟に、もう死んじゃおうかな、、、と考える。

初めてその感情が湧いたのは中学2年生の6月だ。定期テストの結果が悪すぎて(自分では頑張ったのだが)もうこんなに報われないのならいっその事死んでもいいな、、、と思った。くだらない理由だが、なんだか人生全体のやる気がなくなってしまった。そして校舎の3階から駐車場を眺めていたが、普通に着地ができてしまいそうでやめた。田舎だったのでそれよりも高い建物はなかった。

高校に入ってからはもう5年ほど、死ぬか、、、という状態で、生きることを当たり前というか、前提の、覆すことができないものとは考えることができず、ずっと生と死の2択でしか考えられない。

まあ大人になれば大体の人がこんな感じだろうと思っていたがそうでもないらしい。世の中には死ぬことなんて考えたことがない、いくら病んでも死にたいとは思わないといった人間は存在する。

これは私が躁鬱だからこうなっているのかもしれないが、それよりももっと、なんか、死というものが身近かつそれでいて現実的ではないものとしてとらえているからではないかと思う。

 

 

私は生まれた時から二世帯住宅で暮らし、両親が忙しかったのでよく祖父母と一緒にいた。そのため祖父母あるあるの死ジョークを浴びて育った。「まあ死ぬけど」と聞いた回数は100回ではくだらないだろう。そしてそれを聞くたびに、まあ数字的には確かにそう遠くない未来の話だなと子供ながらに思っていた。今ちょうど帰省しているが、3日間でもう10回くらい聞いた。

 

そのうちに祖父はボケてきて、最近では月一ペースで祖母を杖で殺そうとしている。「お前を殺して俺も死ぬ!」をケンカのたびに発しているらしい。メンヘラのジジイだ。

 

 

身近な死を体験して、簡単に死ぬといってしまうことはよくないことだ、と考えを改めた人は多いのではないだろうか。

そしてこういう言い方は良くないのだが、先ほどのそろそろ死ぬ話をしてくる老人は基本的に長生きだ。だから死というものの実態を知ることはほとんどない。

嫌なことがあった→死というシナプスだけが反復学習の効果により高速で結びついて、その周りにある重要な部分は全部切れた。

そのため、安易に辛いことと死を結びつけてしまう。生と死の二項対立、そしてそれに苦しめられている、放棄してしまう。もうやーめた状態である。もうずっとそんな感じだ。

 

なんだか人生って積み重ねすぎる。こんな小さい頃からの聞いた言葉が自分の中に蓄積されているのか。そして思考が偏ってきている。嫌だ、楽しくない、一発逆転のギャンブル要素がないと、つまんない、、、織物かい、織物も積み重ねかい(そうだろ)、でも戻ることはできない。織物よりクソかい。織物のいいところって戻れるってことなんかい。じゃあ織物っていいかもな、素敵かもな、でも人生の美しさって、その戻れないところが輝いているのでしょう。間違いばかりを重ねてきました。恥だけで織った織物が私です。

 

 

絹子は縦糸を切った。