「地元」でしかなくなってしまった土地について

先程まで実家に帰省していた。今帰ってきたばかりだ。本当は新幹線で書きたかったのだが、あいにく隣が埋まっていたので恥ずかしくて辞めた。

お腹が空いた。一旦家に荷物を置いてからコンビニに行こうと思っていたのだが、もう家に着いたら出るのがとんでもなくめんどくさくなって、実家から持ち帰ってきたチップスターアルフォートを交互に食べ続けている。こんなことよりもコンビニでキャベツの千切りでも買って食べた方がいいのに。

 

さて4日ほど地元で過ごした。帰省自体は結構頻繁にしていて、それは私の家族はあまりにも高齢だからという理由なのだが、家に帰るとみんな元気そうだと感じる。誰も病院に行ってないじゃんと思ったが、ただ祝日だったからというだけで、これには気づきたくなかった。

 

私が家に帰ると凱旋のように、いろんなお店に連れて行ってくれる。

祝日のイオンは流石にすごくて、月並みだが人間というものは大きなサイクルの一部であるということをはっきり教えてくれる。大きくなるにつれてイオンも大きくなっている小学生、楽市楽座に溜まっている派手髪の、なんの仕事しているのかわからない若者、なんとなくこの県から出たことがなさそうな風船みたいな女性もいる。そして孤独な老人はいない。(家からバス停まで20分歩いて、20分バスに揺られて駅につき、そこからさらにバスに30分乗ってやってくるのは至難の業で、イオンにいる老人というのは車を出してくれる家族がいる”勝ち組”なのだ)

個人的に好きなのはアニメイトメロンブックスの前で、ここの一角だけ客層が変わる。店内を歩いていたところ、40代のオタク夫婦の男性が、女性の尻をそっと触っていてすごかった。

 

高校の同級生らしき人が働いたりしている。慎ましいなと思う。本当は私の親も私にはこうあって欲しいのかもしれない。

家族でご飯を食べていたら、「お隣さんの娘、留学に行ったんだって、馬鹿じゃないの」といっていたので、やはり家族はここから出て行って欲しくないと思っているのかもしれない。留学審査のため必死になってポートフォリオを作っているということは黙っておいた。あと先日勝手に海外旅行に行ったことも黙っておいた。

 

イオンからの帰り道はほとんど走馬灯で、高校や通っていた塾、よく行ったカフェ、もう誰が住んでいるのかわからない元友達の家などを通過する。その度にそのことを思い出す。政党のポスターはもう読めなくなっていた。

この4日間で県内をいろいろ回っていたが、新しい思い出というよりかは過去をなぞっているだけで、結局私はここに住んでいる人間じゃないんだなということをちゃんと自覚させてくれる。

一ヶ月前に帰ってきたばかりだったのに、家は二軒取り壊され、店は三軒潰れていた。

国道沿いには鮮やかな、お金のある東南アジアの国みたいに大きな看板ができて、かといってできるものといえば薬局かホームセンターしかない。そういう街だった。そしてこれからもそうかもしれないし、けどいつかは終わるのだと思った。超確信的に思った。けど誰にもどうすることもできないし、誰もどうにかしようとも思っていないし、誰もがどうしようもないことなのだと考えている気がする。

 

生まれてからずっとこの街に住んでいる祖母が、卒業したら当然戻ってくると考えていることにごめんと思う。そしてここに戻ってくるということは人生に敗北した時なのだと考えている自分がいることに辟易する。もうそろそろ、ちゃんと地元をとらえたらどうですか。いつまでもこんなところ、と思うのはやめにしませんか、でも思い始めたら、人生が収まってしまうなと感じていて、嫌なんだけど、でも結局は地元に残った同級生の方が幸せそうで、ああ、と思ってしまう。